1944年
五島慶太が運輸通信大臣に就任。
戦時下の国策および国益を最重要視した五島慶太は
城西南の私鉄を傘下に収め世に言う大東急を築いた。
1945年
わが国の多くの都市が焦土と化した。
その住宅不足は420万戸にも達し
住宅絶対量の確保は喫緊の課題であった。
1948年
東條内閣の閣僚であった五島慶太が公職追放。
会社の第一線から退かざるを得ない状況においても
事業にかける情熱は衰えることを知らなかった。
1952年
公職追放を解かれた五島慶太が現役に復帰。
日本の復興、国土再生を胸中に抱き事業を推進。
その辣腕を余すところなく振るった。
1953年
東京の過密化を憂いた五島慶太が
多摩丘陵に第2の東京を創るという構想を発表。
今でこそ東急多摩田園都市の成功は当然と思われがちだが
当時としては極めてリスクの高い計画であった。
1954年
五島慶太の長男・五島昇が東京急行電鉄社長に就任。
東急の飛躍を牽引した天稟の才は未だ開花しておらず
この時まだ放蕩な二代目との評さえあった。
1954年
渋谷に銀座以上のカルチャーを。
五島慶太の悲願は東急文化会館に成就した。
当社はこの開業以降
文化的な街づくりを積極的に推し進めていく。
1959年
この認可を皮切りに東急多摩田園都市の開発がスタート。
野川第一地区がそのモデル地区となった。
1959年
東京急行電鉄会長・五島慶太が病没。
世間では後継者問題が騒がれた。